熊野神社

行基上人の本地垂迹説

2014年10月 9日

従四位勲二等 西川貞一先生の講話

行基上人の本地垂迹説

 昭和五十九年八月十日 月次祭

 本日の御例祭に、また皆様と共にお参りをすることが出来まして私のつたない話をお聞きして頂きますことは、まことに恐縮であると共に私と致しましては非常に有り難く思っている次第であります。本日は、私としては一生涯の思い出と申しますか、人間としての生活について非常な変化をきたしたのでございまして、私は二十才の時から新聞記者になりました。それから十年間、衆議院議員を務めまして、それは新聞記者をしながら務めたわけでございます。その間、六年間ほど、日本が戦争に負けましてアメリカが日本を占領いたしましたので占領軍によって、私が戦時中、衆議院議員を務めておったという事が戦争の責任者の一人として公職の追放を受けまして私は新聞記者は公職というわけではございませんが、やはり公職以上に国民の指導の上に影響を及ぼすものと致しまして、公職に就くことを、新聞記者をすることを排除、禁止されましたので、その間、休んでおります。それは、わずか六~七年のことでありまして、また新聞記者を続けましたから、私は六十年近い新聞記者生活をしたわけでございまして、そしてそれを本年の去る七月三十一日をもって辞職致しましたので、永い新聞記者生活に終止符をうったわけでございます。特にこの新聞記者生活の一番末期を末期といいましても三十三年間にわたりまして、つまり昭和二十七年以来宇部市で発行致します、宇部時報社の社長と致しまして、その間、九千何百回にわたる社説を書きまして、直接間接に皆様方には大変な御援助を戴いてお伝えして来たのでございます。それを本年の七月三十一日をもって、辞職致しましたが、まだ辞職願は新聞社の取締役会において、まだ手続きされておりませんから、自分では、やめたつもりで、むこうでは、やめさせたつもりはない、という、中間期ですな、そういうところに、おるわけです。仏教の方では、死んでから極楽か地獄か行くまでに、「ちゅうい」忌明けというのがありますね。そういう「ちゅうい」のなかにおるようでございます。まだ、新聞社の方はやめさせて頂きたい、と、何と言いましても、八十歳を超えましたからね、新聞社の指導者としていくことは、私は、未練おおあり仕事おおありです自分自身としては、まだまだ、やりたい気持ちは有りますけれども、別に人から辞めいと云われたわけではありません。自分では、やりたいという気持ちは有るけれども、その気持ちをおさえて、思い切って職をしりぞいて若い新進気鋭の人にやっていただきゃなきゃならんという決心をしたのでございます。この決心というものは、なかなか付きにくいものでございますなあ。やはり人間はいろいろの欲がございます。金に対する欲望、地位に対する欲望、というのもありますが、仕事に対する欲望というものも非常に強いものがありますね。私は月給はもらわんでもいい、報酬はもらわんでもいい、少々出してもいい、まだ仕事がしたい、という気持ちはございますけれども、自分がある一つの重い地位をもっているから、自分が地位をふさいではいけんので、あって、やはりそこには永い年間私が占めておった地位はこの椅子を開けて新しい人にやってもらわなくっちゃならんということで、私としては思い切ってやらしていただいたのでございます。その翌日から八月の一日から当社の禰宜さまをはじめ関係の数名の方が中心になられまして私が一度是非皆さんと一緒にしたいと思っていた禊を一週間ほどさして頂きました。この禊は食べ物は七勺の米を御粥にしまして朝と晩と戴いて、副食物は梅干し一個だけ、それから、あとはゴマ塩と番茶。それは無制限に飲む事が出来る。そうして私の宅に御宿を致しまして前の海に朝昼晩入られて、三回入られて禊の行事というものは、かなり大きな行があるんでございますが、その行を皆さんして頂きまして、ただその間に当社の松田執事様が途中で腹が痛くなられて、ちょっと、お休みになったのでございますが、私はそれが大変気にかかりまして、禊は日ごろの日常生活とは非常に違った生活を致しますので、それがなにかこたえたんじゃないかという、懸念があったのでございますが、今日お参りする時に私を迎えに来て頂きまして、車の中で話をしましたところが、腎臓に結石があった。その結石が禊の途中にさっととれたらしいんです。それだから、あとは非常によくなった。というお知らせを受けまして、その結石があるままに、それが太っておりましたならば、非常な健康状に大きな影響があったはずであります。が禊をした為に初めのうちに、さっと、それが、取れてしまって、一日、一両日、二日位熱が出られて、腹が痛くてお休みになられましたけれども、あとはご健康になられまして、今日も宅までお迎えを戴いて、ここえ連れて来ていただきまして、本当に私は安心しますと共に、私は、この禊を二十才の時から、やってきました。あの禊がなかったら、私は、非常にしょげこんだと思います。二十才の時から、今皆さん、何ぼと思いますか。もう八十を越しておるんです。八十を越しておるにしては元気が良いでしょうが、声が大きいでしょうが、八十を越しておるにしては、その間ずーと新聞記者を、ええ、実は戦争に負けました後、公職の戦争中に新聞記者として新聞社の指導の地位にあったものとしましては、その職を追放されましたので、その期間はしなかったのでございますが、やはり永い生涯をかけて、行ってきました新聞記者としての仕事をやめまして、その八月一日という日は非常に私にとっては生涯に非常な、なんといいますか心に大きな影響があるのでございます。非常に不孝な話でございますが、不孝という言葉は孝行に対する不孝ですね。不幸せという意味ではありません。親に対する不孝ですが、仕事をやめた後というものは、親を失ったあとよりか、なにか心にさびしいものをおぼえます。お父さんお母さんには申し訳ありませんけれども、それはいずれ私もお参りしてお父さんお母さんにまみえる日もあると思っております。私はそのほうの精神的な打撃はそれほど感じませでしたけれども二十才以上以来代議士をしておったときも兼務してやっておった仕事を離れたということは何か非常な寂しさを感じます。幸いにして私は子供が三人ですかよったりですか三人でしょう。よったりというのは一人は養子だから、どっちかといえば、養子の方によけいたよっちょりますからね。娘は本当の娘だけれども、産んだ本当の私の娘よりは養子の方が大事。だからよったりの子供というわけでしょう。それからあとの二人もそれぞれ夫をもっておりますから、家にもろうた養子は、これはもうかけがいがないですね子供がかけがいがないようにかけがいがない。自分の子は神様からあてがわれたんだから、どんな子供が生まれようが神様からあてがわれた子供として、これは本当にかわいいですよ。養子というものは選んでよってもらえますがな、よって一番いいのが来てくれるわけではありません。よ、けれども家のへなくれ娘でも養子に来てくれる、そういう人の前だからよってからもらえますからね、だから自分の子供よりか、自分の子供に対しては親は選択権はない。かわいいのはかわいいですね、皆さんはご経験のある方もありましょうが養子というものは選べますからね、ある程度の選択権がある。それが非常に頼りになる。女の子が3人おりましてから一番長女にもらいました養子が今では二人は福岡で事業をしておりますから一番頼りになるのは、この養子が頼りになる。そして出来の悪い娘をしょっちゅう夫婦喧嘩はするでしょうけれども、まあまあ、もう孫も出来ておるんですから、根が出て彦根が出ておるんですから、もうしょうしょう風が吹いても倒れはせん。年をとればとるほど子供に頼る気持ちがつようなりますが、私の子供は女ばかり三人でありますから、よそからもらった養子の方が頼りになりまして、娘にはいいとうない事は云いませんが、養子の方には家の経済から何から、これは先々頼っていかなくてはなりませんから、一〇〇%話をして、それから私のする事を、私もいい年をして人の妨げをしてはならんから、こんども、退職をしょうと思うが、退職をしてもいいじゃろうかい、と、いうようなことは、他の娘には私も、実の娘には、いいませんけれども、養子にだけは相談を致しまして、それはもう、永く働かれたのだし、娘も、私もあなたの子になっている。皆一人前、やっているはずですから、安心してこれから静かに何年でも老後を思うようにして下さい。と云われた時には、私は生まれて一番うれしかったですよ。ほんとにうれしかった。これから先、何年経つか判りませんが、私は自分に、におうた自分に好ましい事を、さしていただいて、静かに神様の迎えを待つのでございます。その点に於いて私は非常に有り難いと思いますのは、この熊野様との御因縁でございます。私が初めて当社の御祭典にお話をさせていただきましたのは、ご遷座一周年のここに宮が建てられまして、一周年目の御祭典に私は、お参りを致しまして、話をさせていただきました。その時に、話したことはよく覚えておりませんけれども、その時に、この次には、誰かいい講師を紹介して頂けるだろうか、という、お宮からの、ご要請がありまして、それは私も、いろいろ探しましょうが、よかったら、私が、もう一度、話させて頂いても、よろしゅうございます。と、話したら、是非あなた話して下さい。と、いわれるから、その翌年も参りまして、ところが、それが翌年も翌年もということで今日までずーと続けまして欠席いたしましたことは、まだ二回であったと思います。その二回は共に天皇陛下の御招をうけた日でございましたので、これは何をおいても私は参らなくてはならんことで、ございました。そうして、そのあとは、お参りは致しましたが、お話を申し上げる時間がなく、ほかにどうしても、やむ事の出来ない事がありましたので、お話は、させていただきませんでしたが、それ以外は全部、例祭にお話をさせていただいたことは、この熊野の大御神様のご神恩。何か生前から深い何かがあっての、ことであると、私は深く深く感激致しておるのでございます。また永い新聞記者生活の最後を結んだ七月の終わり八月十日の御例祭に私は、この健康な体でお参りすることが出来て、誠に拙いお話でございますが、元気な声を出して皆様に私の思う事をお伝えすることが出来たのは私として一生涯に比較するものがないといえば過言かもしれませんが、最も深い感慨をもっておる今日の一日でございます。この席でございます。昔から御挨拶と猫の尻尾は短い方が良い。といいますが、話も、あんまり長話は、このまれません、だから、簡単にお話させていただくのですが、私は生まれてから、敬神の念は強い家に生まれました。私の家は宗旨から申しますと浄土真宗でございますが、敬神の念。神様を尊ぶことも日本民族として私は絶えず努力しておるのでございますが、この熊野様ほど十数年にわたって毎月毎月十日の講座を私の為に与えられましたということは、これは深い深い幾世の御因縁があってのことであろう、と、これは神様のお許しなくして、出来る事ではございませんので、神様のお許しを戴いて、それを務めさせていただいたという事を、本当に感謝に堪えないのでございます。そうして、もういと口皆様に申し上げたいことは、この日本では仏教が初めて入りました時にその仏教を取り入れるかどうかということを、神道。神様を祀る神道との間に、色々の争いがありまして。外国の例から申しますと、昔からの信仰をもっている宗教のある国に、新しい宗教が入っていった場合には非常に悲惨な残酷な宗教戦争というものが起こって大変な悲惨なことが行われておる。それは終戦記念日を中心に、あの大東亜戦争における国民の苦難、そこに広島に長崎に原爆が投下されて日本の国民が初めて原爆の非難をうけたことが今、新聞紙上にもあの時の、悲惨な事が書いておりますけれども、戦争の歴史を見ますると、あの大東亜戦争どころではございません。一番残虐な戦争は宗教戦争であります。その宗教の戦争が起こったときには外国人と戦うのではなしに、自分の国内において戦争が起こるのであり、親子兄弟が敵味方になって、争いがあるというような、悲惨な事がおこった例が世界にはたくさんあるのでございます。日本は、もともと神様をお祭りする神道の国でございますが、ここに仏教が入ってまいりましたときに、あまり大きな争いが起こらずに、仏教と神道とが並立して日本では受け入れられてきたのでございまして、私の家(うち)にも庭には神様をお祭りしております。小さい社殿をしつらえまして、それには神様をお祭りしておつて、そして家の中の床の間には阿弥陀如来の肖像を掲げて仏様をお祭りしております。そういうことが外国にはない、これは日本の国独特のものです。だから、そのおかげで私共は神様にお仕えしながら神様のお守りを戴き神様の御利益をうけながら又、仏けさまの方の御慈悲も受ける事が出来るという。これは今日お参りの方も両方とも受けていらっしゃる方が多いと思うのでございますが、これはですね、奈良朝の初めに行基上人。ぎょうは行うですね。きは基(もと)です。行基上人という方が、こういう教えをたてられたのでございます。インドの仏として顕われられたのは、日本の神様である。日本の神様がインドでは仏さまとして顕われられたのであるから、神様と仏さまを、これは世界に無いんです。神様は、ちゃんと神棚に祀って、又一面には仏さまを仏壇に祀って、神仏両方を、皆さんも大部分がそうでしょう。神仏両方でしょうが、そこに何の矛盾も無い。これは世界にない日本の有難いものでございます。それは奈良朝の初めに神仏の争いが起こって日本がもめそうになったときに、行基上人という偉い坊さんが出られまして、本地垂迹(ほんじすいじゃく)日本の神様が、そのままインドで仏さまとして顕われられたのである。インドの仏は日本においては神様として顕われられておられる。そういう意味に於いて熊野大神様は本地の仏さまとしては阿弥陀如来。垂迹の神としては熊野の大神。でありますから、この熊野の大神さまの信仰をなさるならば、ご崇拝をなさるならば、この世においては大神様のお守りのもとに、この現世はあらゆる災厄を除いて、災難を除き福徳を授かり子供は立派に育って、幸せな生活を送らせていただくと共に、死んでからは本地の阿弥陀如来によって極楽に往生させていただくという教義が行基上人によって成立を致しておるのでございます。だから外国人がみますると、はなはだ、奇妙に感じるそうございまするが、私も朝起きますと私が朝どういう生活をしているか。今日は私も相当、年ですから、この次の月は、もうお参り出来んかもしれませんよ、もう冥土に行っているかもしれません。判りませんからの、それで今日申し上げておきますが、朝起きて先ず神様、おがみます。ちょっとした祝詞をあげます。それから子供と孫たちの名前を一人づつ読み上げる。一人づつ大きな声を出してから読み上げてしっかりやれーと、声をかける。そりゃあ親というものは切ないものです。それをやらんと、私は少々頭が具合が悪い、腹が具合が悪いと寝ちょっても、朝それだけはやらんと、どうしてもおれんですよ、私が一人一人子供の名を遠くにおる子もおります。そこにいる子もおります。九州の方に居る子もおりまする。けれども、その子たちの名前を一人づつ読み上げて、それから孫たちは、もう人数が多くて一人一人云われんから、その子供の主人と家内と二人の名前と孫たちー一切合切、そして一人一人の名を読み上げて、そして私が神様にお願いして言葉そのまま、子供たちのところに孫たちのところにそのご利益を戴いて皆が幸せに生きていくように、私も相当の年です。もう死んでも何でも若死にで、とは誰も言いません。年に不足はないとみな言います。年に不足はないけれどもまだ元気じゃったのにおしいことことじゃった。といわれる。まだまだ若いのにおしことじゃったとは誰も言いません。まあそういう年になりましたから、私は曾孫がたくさんおるんですよ。曾孫が、もう私の子供がお爺さんでありおばあさんなんですからね、ええ、それで又私はまだ元気でしょうが声は、ははは・・・

元気をもって、今まで宇部時報の社長をさせていただきましたが、七月三十一日から現職は毎日出勤することはやめましたが、任期が九月までございますから、その間まだ社長の位置におらんにゃなりません。だから、私は会社に出んけれども会社に何かありますと、責任は私がおわんにゃならん。だからそいうことにならんように、私が社長をやめたら何があってもええというわけではありません。何時までもいつまでも無事息災平穏で繁盛してくれんにゃいけませんが、私の責任のある限りは特別に守って頂きます様に神様にお願いをせずにはおられません。恥ずかしながらそれが私の正直な気持ちでございます。私は当社の御遷座一周年の記念祭にお参りを致しまして、その席でお話をさせていただきまして、その時に、この次から誰かいい講師をご紹介頂けんでしょうかと云われたから、そうですね、私も講師のきずきはないが私でも良ければ今度も奉仕しましょう、と云いましたところが、その今度今度が続いて今日まで参ったんでございます。この次はどうなりますかは、神様お示し、もうこの年になりましたから、神の思し召しであるならば、何事も私は、「はい」と申しまして、有難くお受け致しますが、神様がお許しくださいますならば来月もさ来月も来年も再来年もここにお参りしていつまでもいつまでも皆様にお会いしてお話をしたいと思います。で、死んでも霊魂ここに留まって、たえず、熊野の大神様のところにお参りをして、庭の掃除をさせてもろうて、ご奉公させてもらいたい、そのかわり、うちの息子や娘のことは宜しくお願い申し上げます。それが偽らざる本音でございます。私は今日自分が一生涯天職としてやってまいりました新聞記者という生活を去る三十一日をもってやめまして、やめたあと、何でもさびしゅうて困るがと思っておりましたが、この熊野の禰宜様始め執事様このお姉さまそれから皆さんご勇姿何人かがうちえ来て一週間の禊をして頂きまして、その禊をして頂きましてから私もその間、非常に心豊かでありましてにぎやかでありました。禊が終わった後のお祭り、その中間に私が非常に気にかかったことが、あそこの松田執事さん顔を見てあげて下さい。あの方が腹がいとうなった。腹がいとうなって禊がやれんことになった。途中でお帰りになって、禊は病気を治すはずじゃが、おかしいなと思って気になっておりましたが、どうじゃろうか、私の指導が悪かったのだろうかと、今日お迎えを頂きまして、なにやら腎臓に結石が出来ておったのが、スッと流れたんで、それが取れた時に痛かった。そうすると、あなた悪うなったんじゃあない、「ようなったんじゃ」というたら、それ、ようなったんです。安心しました。精神の健康のため身体の健康の為に、どうぞ禊をやりましょうと禊をやって頂いて、それがために、病気になったというたら、私は死んでも死にきれん。(笑い)熊野大神様は行基上人の本地垂迹という説によりますと阿弥陀如来がインドに顕われた。本地の神は熊野の大神。それがインドに顕われた時には阿弥陀如来様であるというのが行基上人のおときになった教えでございます。そういう風な信仰をして頂きまして、吉部(きべ)という所は非常に神道の盛んなところでございますが、吉部の八幡様に私は講演に行きます時に、お迎えが来て下さいまして、それは、お宮の方ではございません。お宮の氏子の総代の方が迎えに来て下さいまして、あなたはお宮のお世話をよくされましょうし、吉部には、神様一本でお葬式も神様の神式でされる方が多いようですが、あなたも神式の方でございますか、と聞いたら、いいや私の方は仏教でございまして私は生きてるうちは一切神様にお願いする。死んだら仏さまに極楽に参らせてもらう。と、そういう私は信念を持っておる。ということでございました。それはどちらでもいい、生きてるうちも大事ですが死んでからも大事です。年をとると、ねえ、死んでからのことがなかなか気になるですよ。そしてこの熊野様は現世においては熊野の大神として我々をお守りくださいますし、本地の仏さまとしては阿弥陀如来として我々の未来を極楽浄土に引き取って。けど、極楽に行ったら、色々考えるに退屈じゃなかろうか、と思う。何もせずに、遊んでから朝から晩まで美味しいものを食べさせてもらって、美味しいものはのうなるんじゃないか。何を食べても美味しくないことになりはしないか。まあ、やはり貧乏は貧乏でいいんじゃないですか。時々金が入るとうれしい。日頃粗食している方がいいのではないですか?時々お魚があったり御馳走があると、どえらい嬉しい。何を食べても美味しゆうないようになっては、これは駄目ですね、人間。だから我々は一番いい幸せを大神様から与えられておるんであろうと思うのでございます。少なくとも熊野の大神様にお参りされる方々は最上の幸せを頂いておられ、その筆頭が私でございます。私は今私ほど幸せなものはおらんと思うております。私は世界一幸せな人間じゃと思っております。有難うございました。(拍手)こういう話を聞いていただきますと私も幸せでございます。どうか我と共に人も我も皆が熊野大神様のお守りのもとに幸せな生涯を終わり、また、未来は熊野の大神の仏の阿弥陀如来によって、お救いをうける事が出来る。この夜もあの世も熊野の大神さまの御利益によって、我々はくまれることは大変ありがたいことであると思います。今日の話は矛盾があるとか、どうも納得がいかんところがあるとか、ありましょうが、まだまだ、これでやめりゃしませんから。()来月さ来月参りますので、その時まで今日の質問を書いて下さい。それから、討論会をやりまして、その真理をどこまでも追究していくように、皆さんと共にお願いをして思うんでございます。ここで一つ抗議を、松田さんに、私は、この間松田さんが来てから、あそこえ、非常にまずい字を書いてあげて、これは絶対にお宮に掲げる事は出来ん。と、これだけ下手な字を、悪筆を、お宮にかけてから人が目にするのは私はまことに恥ずかしゅうてならんから、というて、あれほどゆうておいたのに、今日はここえ来てあそこえかかっとる、まあ、これは、しょうがないなあ、大変恐縮の至りでございますが、私は、学校は割合よう出来たですよ。ところが丙と丁があった。あとはみな甲。書き方が丙。図画が丁。丙、丁さんあとは皆甲。まことに下手な字を皆さまにもお目にかけて、本当に穴があったら入りたい気持ちが致しますけれども、書いてることは至誠神に通じる。真心があれば、それは必ずや神様に通じます。私は多くの体験があります。この次には神様の神言を頂いた体験談をさしていただきますので、誘い合わせて今日より沢山お参り下さいます様にお願い致しまして本日の拙い講演を終わらせて頂きます。(拍手)